静穏-FUSHIMI WARD-
ゆったりと時間が流れる
風雅な地に。

image photo
静穏を享受する悠景の地。
岸辺型美観地区・旧市街地型美観地区に
誕生する、レ・ジェイド伏見桃山。
暮らしの舞台となるのは、「岸辺型美観地区・旧市街地型美観地区」。歴史情緒豊かな岸辺と町並みの景観を保持するため、建築意匠や素材・色彩等について京都市により制限が設けられた地域です。静穏で美しい風景が、長きにわたり守られ続けます。
image photo現地周辺の街並
  • image photo現地周辺の街並
  • image photo現地周辺の街並
歴史と文化の薫りがただよい、
穏やかな暮らしの空気が息づく、
悠久の水都「伏見」の静域。
「レ・ジェイド伏見桃山」が誕生するのは、賑やかな駅前から一歩奥まった、穏やかな暮らしの空気が息づく地。水辺の町として薫り高い歴史と文化を築き上げてきた「伏見」。その真価を存分に堪能できる、永住にふさわしい静域と呼ぶべきアドレスです。
エリア概念図

水辺を中心に発展し続けてきた港町。

image photo

幾つもの銘酒を生みだした「良水」の地。

image photo

万葉の時代から大人の感性を刺激した別荘地。

image photo

水辺を中心に
発展し続けてきた港町。

image photo
港と商店街を礎に商業の街へ。
伏見は遠く奈良時代から街道が整備され、水運も発達した交通の要衝の地として栄えてきました。豊臣秀吉は自ら暮らす地を国内最大の河川港として港町伏見を誕生させる構想を練り、まずは伏見城の築城に必要な資材を運搬するため港を開港。さらに商人が伏見に集まることを意図して「大手筋」なる大通りをつくりました。これらは伏見港と伏見大手筋商店街の始まりとなり、誕生の記録として享保十三年(1728年)作成の紀伊郡伏見御城図に「大手広庭の前、大手筋通りと云う」と記されています。その後、伏見は政治と経済の中心地として発展を遂げ、酒蔵や商店街をはじめ町衆の力を結集し繁栄を極めていきました。
  • image photo
  • image photo
  • image photo
  • image photo現地周辺の街並

幾つもの銘酒を生みだした
「良水」の地。

image photo
豊かな良水をたたえる
「伏水」。
伏見は良質の地下水に恵まれた地であり、かつては「伏水」と書かれていました。あちこちから湧き出る良水とそれが集まり流れる幾筋かの川が稲作を盛んにし、のちに酒造りに発展。徳川家康が幕府を開いた江戸初期には、酒の需要が増えたことで酒造家が増え、伏見は天下の酒どころとして全国にその名をとどろかせるようになりました。伏見の水は軟水に近い中硬水であり、口当たりがまろやか。良質の水でつくる酒は優しくその味わいから「灘の男酒、伏見の女酒」と称されています。なかでも御香宮神社の井戸水は伏見七大名水のひとつとして数えられ、日本の名水百選にも選ばれています。
image photo
緻密な意匠を放つ深草瓦。
豊臣秀吉は伏見城を築くため、播州や瓦職人を招集し質の良い粘土がとれる深草の地に窯を開きました。秀吉の没後には、息子の秀頼が寺院への寄進や改修を行ったことで需要は増え、江戸中期には瓦は火災を防ぐと称され、庶民の家にも葺かれるようになりました。現在はその美しさと緻密な意匠が評価され、国宝や文化財の修復、寺社の改修に使われています。
  • image photo
  • image photo

万葉の時代から
大人の感性を刺激した
別荘地。

image photo
いにしえより、
貴族に注目された伏見桃山。
宮廷文化が花開いた平安時代の後期。豊かな水に恵まれた風光明媚な伏見には、皇族や貴族が別荘を構えるようになりました。やがて離宮で院政が行われるようになり、伏見は文化と政治の中心地として重要な役割を果たすようになります。安土桃山時代にはこの地に魅了された豊臣秀吉が伏見城を創建。周辺には全国から集めた大名の屋敷が立ち並ぶ城下町が形成されました。現在もレ・ジェイド伏見桃山が位置するエリアは往時のおもかげを今に伝える建物が立ち並び、その趣ある景観形成を守るため「岸辺型美観地区」「旧市街地型美観地区」に指定されています。
出典元:国際日本文化研究センター
環境撮影:2021年9月
  • image photo
  • image photo

CONTENTS

※掲載の交通機関を利用した所要時間は日中平常時のもので、時間帯により異なります。※2021年12月現在の情報となります。
※徒歩分数は80mを1分として計算(端数切り上げ)した概測時間です。